guilty / responsibility

 非常におかしな習慣があったひとりの男について聞いたことがある。
(略)
 それで彼は行った。そして彼は三か月後に戻ってきた。彼は前より良くなっているようだった。パブのオーナーは尋ねた。「どこか精神分析家のところへ行ったのかい? 三か月間姿を見せなかったからね」。彼は言った。「ああ。俺にとってとても助けになったよ」。「治ったのかい?」とオーナーは尋ねた。「完全に治ったよ」。しかし彼は再び同じことをしでかした。オーナーは言った。「これはいったいどういう治療なんだい? 同じことをやっているじゃないか」。彼は言った。「でも俺は完全に変わったんだ。以前は同じことをやって、罪の意識を感じていたんだ。もう俺は罪の意識を感じないんだ。精神分析家は俺を助け、罪の意識を直してくれたんだ。以前は戸惑いを感じていたんだが、今では悩まないですむのさ」
 
 これが西洋で起こったことだ。精神分析家は、ただ何も問題ではないと感じるように人びとを助けてきた。精神分析は深い責任を与えなかった。罪の意識を取り除いただけだ。罪の意識は悪い。それは取り除かなければならない。しかしそれは人びとが罪の意識を捨て去り、他方で責任の観念を学ぶようなやり方で取り除かなければならない。罪の意識は悪い。罪の意識は非常に危険だ。それはあなたを破壊する。それは傷のようなものだ。しかし責任を感じるということは、実に、非常に本質的なことなのだ。責任はあなたに魂をもたらす。責任はあなたに統合をもたらす。そしてあなたが責任を感じないかぎり健康な人だとは言えない。健康な人は自分が何をしていようと、自分に責任があるということにつねに気づいている。責任という観念そのものがあなたに自由を、威厳をもたらす。真正なる存在というのはそこから現れる。あなたはもっと現存するようになり、もっと「今ここ」にいるようになる。
  
 罪の観念は偽のコインだ。それは責任であるかのように見える。が、そうではない。罪の意識はあなたを意気消沈させる。責任はあなたに強烈さ、気づきの鋭さをもたらす。あなたは自分の中にさらなる統合を持つことになる。もっと一諸になる感じがする。
 
OSHO  Come Follow Me Vol.4