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うつくしき誤解。
 
一瞬、いいえ、そうではなくて実際には、現場では、と言いかけて、口をつぐむことにした。
ふうん、あなたはそう思い込まれますか。とだけ眺めて、何も書かない、何も言わないことにした。
 
「no response」と言う、という応答−レスポンス−もあるのだな、とこのあいだ学んだ。
 
共有するもののない人たちに、何も言うことはない。
用もなく、用をつくることもなく、好むことも、嫌うこともない。
どうぞ安寧でいらしてください。
 
 
スケジュールがいっぱい。バッティングする。
どちらを選ぶか。どちらを捨てるか。
きゅうきゅうと考え調べて、やってくるこたえが腑に落ちるときも、ある。
 

痛みから逃げてはいけない。惨めさから逃避してはいけない。私が言った二番目のことは、動き回って日常の行動をしているときに、突然止まって、しばらくのあいだ観照者になることだ。それから活動を再開するがいい。たとえ24時間のうちのしばらくのあいだでも観照者になれたら、あなたはまったく突然この世がいかに大きな気違い病院であるか、そして、観照者になることで自分がいかにそこから抜け出すかに気づくだろう。
 
 誰かがあなたをののしると、すぐにあなたはそれをすっかり受け入れてしまい、あなたをののしっている人物が見えなくなる。その人がののしるやいなや、あなたはそれを受ける。実際には、ことばがまだその人の口をついて出ていなくても、あなたはそれを受けてしまう。ののしる本人がまだ言い切ってすらいないのに、そのすべてを受けてしまう。実際には、ののしられた2倍を受けてしまう。ののしっている当人ですら、自分がののしった以上のものをいかにあなたが受け取ったかを見て、まごつく。なにが起こっているのか、あなたは完全に見そこなう。
 
 次に誰かがあなたをののしったら、見張りになるがいい。受手になってはいけない。ただそこにいて、あなたをののしっている人を見守るがいい。その結果、あなたは自分を笑うことになる。そして、その笑いは束縛を解くものになる。あなたは自分が生涯を通して絶えず冒涜的なことばの受手であったことを笑うだろう。おそらくあなたはその人に感謝すらして、自分の道を行くことになるだろう。そうすることで、かわいそうなその人は頭をひねったまま取り残されるだろう。そのような行動はその人の理解を超えているからだ。その人はすっかり途方にくれてしまうだろう。
 
 24時間で、なにが起ころうとも??怒りにあって、憎しみにあって、愛にあって、友情にあって、悪意にあって、歩きながら、休息を取りながら、なんであれ??それをときにはしばらく、ほんのしばらく見守るがいい。一瞬自分を揺さぶって、なにが起こっているのかを覚醒をもって見守るがいい。そして、その瞬間に受手であってはいけない。なんであれ起こっていることの見張りでいるがいい。その瞬間にひじょうな静けさがあなたを取り巻く。あなたはこの上なく気づくようになる。というのも、その瞬間あなたは瞑想に満ちているからだ。その覚醒の瞬間そのものが瞑想の瞬間だ……。
 
Osho, And Now, And Here