きょうの温故知新−『失敗から学ぶ』の間違い

昨日、滅多に触らない棚のあたりを掘り返していたら、ログのプリントアウトがいくつも発掘された。そのときどきに気になっていたものだろう。さがしものの手はとまって、ひとしきり読んでしまう。
   
ほとんどは佛教関係なのだが、なかには、こんなの*1もあった。
 
『失敗から学ぶ』ということの、定義域を超えた、文脈を離れた、不当な使い方についてだ。
 
当時はたぶん、ああ、言葉の出どころを間違えているな、それはともかく、学ぶのはわるいことではあるまい、厳格なことをおっしゃるのだなあ、くらいのことを思っていたかもしれない。
今読むと、こんなことを言う大人と関わらなければならないなら、気色わるいと思う。課題によっては激怒するかも。学ぶだとか美しく言っているけれど、自分の側だけを見ている自己チューで、周囲にとっての問題解決には最優先の関心がないのだし、責任逃れでハタ迷惑だな。親(大人)が失敗をしたのなら、なにか被害を及ぼしているはずだから、まず責任をとる(謝罪と再発防止)ことではないかな。なんて、当時は考えていなかったかもしれない。これも間違っているかもしれないけれど、繰り返しすることなら、こんな点検のしかたもしないな。*2 *3 *4
 

*1:http://jalsha.cside8.com/diary/2002/11/11.html

*2:というのも何年か経つと、今わかったつもりのことが、全然ちがっているかもしれない

*3:大きくは、ニュースに出ている専門家の事件だって、繰り返し失敗してなかなか学ばない、じゃあ済まないだろう。小さくは、書類の数字を間違えたのだって、学びます云々より先にすることがあるのじゃないかな…と気をつけよう

*4:こうして棚は片づかず…清掃生活にとってはヨクナイ(^_^;