高を括る

AERA11月29日号「ネコバスでめぐる不思議空間 宮崎駿の異界と異物」より

(略)ここでは奄美自由大学という団体が、奄美八島という異空間を舞台に、「いかに学び逸れるか」という活動をしている。(略)もっと言語以外の方法による学びはないのだろうか。言い換えれば「言語化できないことを、どうやって学ぶか」ということだ。
 今福(札幌大学教授 今福龍太)は「言葉から理解すると、『高を括る』ようになる」と言い続けている。身体が伝えてくれる現実を、見くびる、あなどる、わかった気になる。自分の感性で現実を切り取らない。「感じる」ということを、「わかる」ということの対極に置いたことがそもそも間違いなのではないか。

もう数十年もかけて、言葉を介した「知」による学びを身につけてきて、アタマで理解してきている。そんな自分なのでどれほど高を括っているのか、もうほんとうにはよくわかれない。と思う。そんなところから、「五感で感じたままを受け入れる」といっても、高の括り方を巧妙にしてしまうのかもしれない。
この記事のように、宮崎駿アニメが言葉を超えた叡智を紡いでいる、というのには、もろてを挙げて賛成とはいかないけれど。言葉によらないものを侮らないこと。だけど、それでもなお、言葉によって伝える守備範囲のことは言葉に拠って伝える努力や工夫。気にしていたい。

原稿は、嵩だけはだいぶん進んだ。報告のほうの原稿は録音を聞きなおしているのだけれど、ことばにならない、ということや、それでも理論がある、ということが語られていてる。