感覚について

「感覚」ということについて考えていた。
 
昨晩のレッスンでは、ローラー上や、台形の柔らかいマット上に横たわったり、ボールに脚をかけてなどの不安定な状態での動きをいくつもやった。じぶんの中心を見つけてバランスがとれると、ローラー上で片足と両手を挙げて(片足だけが着地して)いられる。しばしば転ける。でもときどき、あ、バランス、とわかるときがある。わかるのは、アタマではなくて、どこか一点の感触でもない。一種の総合的な感覚のようなものだと思う。
 
アレクサンダーテクニークのレッスンでも、最初に筋感覚のことを習った。
たとえば、目を閉じて掌をわずかに開閉するとき、見えなくても今じぶんの掌がどうなっているかはわかる。レッスンをしていると、首だとか、脚だとかの、以前にはわからなかった感覚がわかるようになったりする。そうすると、微細にだけれど、身体の使い方がそれまでとは違ってくる。同じではいられなくなる。と思う。
 
と言っているのは、身体の感覚のことだが、もともとあるはずなのだけれど、なにもしないで放っている間は、それはないのと同じで、習熟した先生について意識して習って、知識だけではわからないけど知識も必要で、アタマでわかったつもりになったところで意味がなくて使いものにもならなくて、そういうものがあるのだと思いながらやってみてわからなくてまたやってみてやってみて、いったんその感覚がつかめると、かなり当たり前なもので、しかし意識していないとそこからはずれたりする。
 
あまねく、といったらまた定義域を超える話かもしれないけれど、身体のことに限らず「感覚」というのは、そういうもの、なのかもしれないと思った。生まれつきのポテンシャルだけれど、ポテンシャルのままで体現されない可能性もある、そういうもの。
 
やれやれ。ヒマなことを考えていますね。
こんなところに雑駁なことを書いておいて、あとはぼちぼちとひっかけていよう。