再び、神の楽器

初詣で、二礼二拍手一礼をした。
願いごとはとくにしなかった。
ケジメがつくように、清まるように、ただ手を打った。
 
神さまの使える手でありますように。*1
神さまの楽器であれますように。
 
そして今生での神殿であるこの身体をメンテナンスしてゆくこと。
 

ワーク/ワーシップ(仕事/礼拝)

Trust in Allah, but tether your camel first

自分の責任を回避してはいけません!
自分がやるワークのなかでは強烈に生きていきましょう。
そして、人間として可能なことならなんでもやりつづけましょう。
それでいて同時に、どのような緊張も創らずに、欲求不満にならずに、結果にこだわることなく、自分のやっていることを信頼して祈りにならしめましょう。


あるマスターが弟子のひとりと旅をしていた。
その弟子には駱駝(らくだ)の面倒を見る役目があった。
彼らは夜になって、疲れて隊商宿に着いた。
駱駝を繋ぐのはその弟子の義務だった。
彼はそのことを気にせずに、駱駝を外に放しておいた。
彼はただ神に、

「駱駝の面倒を見てください」

と祈った。
そして彼は眠り込んだ。

朝になって、駱駝はいなくなっていた・・
盗まれたか、さ迷い出たか、起こるべきことが起こった。
マスターはたずねた。

「駱駝はどこにいる?」

すると弟子は言った。

「私は知りません。
 神に聞いてください。
 私はアラーに駱駝の面倒を見てくれるように伝えました。
 私はとても疲れていたのです。
 ですから、私はどうなったのか知りません。
 それに、私には責任もありません。
 私はアラーにはっきりと伝えたのですから!
 それにあなたは、『アラーを信頼しなさい』と教えつづけています。
 だから私は信頼しました」

マスターは言った。

「アラーを信頼するがいい。
 だが、まず自分の駱駝を先に繋ぎなさい・・
 アラーはお前の手以外に手をもっていないからだ」
 
もし神が駱駝を繋ぎたければ、誰かの手を使わなければならない・・
ほかに神の手はない。
それに、それはあなたの駱駝だ!

いちばんいい、もっとも簡単な、もっとも手短な方法は、自分の手を使うことだ。
駱駝を繋いで、それからアラーを信頼するがいい。
あなたは自分にできることをなんでもやればいい。
それは、結果を確実にするものではない。
保証はない。
だから、あなたは自分にできることをなんでもやるがいい。
その後は、なにが起ころうとも、それを受け容れることだ。

これが駱駝を繋ぐ意味だ。
自分にできることをなんでもやるがいい。
自分の責任を回避してはいけない。
その後は、なにも起こらなくても、あるいはなにがうまくゆかなくても、アラーを信頼することだ・・。

アラーを信頼して、怠けていることは、非常に簡単だ。
アラーを信頼せずに、やり手でいることは、非常に簡単だ。
人間の三番目のタイプ・・アラーを信頼して、しかもやり手のままでいることは、むずかしい。
だが、いまではあなたは楽器にすぎない。
神がほんとうのやり手だ。
あなたは神が手にしている楽器にすぎない。

人間として可能なことならなんでもやりつづけるが、そのことで緊張を創らない人が宗教的な人だ。
そのときには、行為はある種の祈りだ。
結果はこうあるべきだという欲望はない。
そうなったら欲求不満はない。
信頼が、あなたが欲求不満にならずにいるのを助けてくれる。

そして、駱駝を繋ぐことが、あなたが活き活きと生きるのを、強烈に活き活きと在るのを助けてくれる。

Osho THE WISDOM OF THE SANDS, Vol.1, pp.70-72

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