呪いのコミュニケーション

子どもは判ってくれない (文春文庫)』より

 いかなる答えを以てしても、問いかけを鎮めることができないことが予測できるとき、人間は絶句する。それは単純な沈黙とは違って、重苦しく、私たちの生気を蝕む種類の沈黙である。
 しかし、このような「絶句」状況に他人を追いつめることを(それと知らずに)好む人がいる。(略)
 むろん、本人はそんな「邪悪」な欲望が自分を駆動していることを知らない。しばしば、「呪い」をかけている人間自身は、自分の行動を動機づけているのは教化的な善意だと信じている(場合によっては「愛情」だとさえ)。
 
 どこかで他者とのコミュニケーションの欲望には「節度」を設けるべきなのだ。
 「呪いとしてのハラスメント」を、日常的にそれと知らずに行っている人間たちに共通するのは、この「コミュニケーションの欲望への節度のなさ」ではないかと私には思える。
 
 (略)彼の言動そのもののうちには私を直接傷つける要素は何も含まれていない。ただ、彼のある種の「節度のなさ」が、私を疲れさせていたのである。
 
 もし「深い疲労感」を与える人間がいたら、その人は「呪い」をかけているのだと知ること、そして、できうるかぎりすみやかにその関係から離脱すること、これに尽きると思う。

この疲労感はもう5年越しだ。
いまの課題は、もはや仕事の責務を果たすというよりも、すみやかに呪いから離脱することかもしれない。
仕事として、落ち着いて、用件を伝達する。
しかしもう、話し合えるかもしれないなどという幻想は持たないことなのだろう。
 
ある種の局面で、憂いある眼差しをして、口をつぐんでいらした先輩のことを思い出す。
話にならないときには、そうやって黙ることが、できることのうちのいちばんのことなのかもしれない。
 
子どもは判ってくれない (文春文庫)