「正しい意見」

子どもは判ってくれない (文春文庫)』から

(略)包括的に「正しいこと」を言う人は必ずしも個別的・具体的な局面において「適切な判断」を下す人ではないことを私たちはみんな知っているからだ。
 そういう局面で「適切な判断」を下す可能性が高いのは、(略)包括的命題を語っておしまい、という人間ではなく、(略)個別的な問いに議論の水準を移すことのできる人間である。
 しかし、「正しいこと」に固執する人は、これを嫌う。というのは、そうなるといずれ具体的な提言をしなければならなくなるし、具体的な提言をすれば、必ず誰かから異論対案が出るからだ。
 
 (略)だから、正しいことだけを言いたがる人は、必然的に「具体的なこと」を言わないようになる。そして、いったい誰が、どういう資格で、誰に向かって言っているのかも不分明になる。
 今、私たちの社会はそのような、「具体性を欠き、誰に向かって言っているのかよく分からない」けれど、文句のつけようのないほど「正しい意見」に充満している。

一見、誰かにことばを届かせ何かが始まることをめざしているようでいて、
そのじつ優先されているのは、正論を述べることや、
じぶんの正義にこだわることだったりする場合(人)は、思い当たるなあ。
じゃあ、この現場でどう動くの?となったときには、安楽椅子の評論家でしかない
人間もあるなあ。と、しみじみと思われる。
そんな者はほうっておいて、もうできるだけエネルギーも割かない。
じぶんが成長すること。