身体と対話ができる

AERA 07.3.26号 現代の肖像 為末大
自分のためのメモ:

  • 自分の身体ときっちり対話ができる
  • 何事も限界まで追求する生き方をしてきた
    • 跳ばない宣言に納得する
      • 「なにをしたいのか」「それはなぜ、するのか」「すれば、どういう結果が期待できるのか」
      • 自分の理屈において納得しないと動かない
  • 孤高を貫いているが、孤立はしていない
    • 姿形を強制されることを嫌った
    • 物事の本質を知りたい
      • 地道に事実の検証作業を繰り返すのがジャーナリストならば、経験値から冷徹に進化の方向性を導き出すのがアスリート。そして『出した結論に躊躇はない』
    • 屹立した意志を持つ
  • お金に種類がある
    • 副業がいかに利益を生もうが、プロ陸上選手であり続けることにこそ誇りがある
    • 現実に対峙してきたハードラーは、サイバー空間上にだけ存在するものには価値を見いださなかったのではないか
  • 自分の考えを、自分の言葉で話すことができる

文脈から切り離して、適切な引用とはいえないけれど。
選ばれている切り口にはライターさんの視点が反映されてあるだろう。
 

14周年かな

咳はまだ続いている。
それでも、とまっている時間があって、だいぶんマシになった。
4周年か、と書いたけれど違った。
14年くらい前のあるときにも、咳がとまらないでいたのを思い出した。
ふうん、相変わらずなんだ。
これもまた、鞭打つようにではなく、ふうん、と観る。
慣れないことなので、しくじったりしながら、ふうん、と観るのに戻る。

傷口をはがすのではなく

すぐれたリーダーのもとで瞑想をする。
 
すぐれているかどうかなどわからないで参加したのだけれど
とことん瞑想して暮らしているひとなのだ、と共に居るすこしの時間でわかってくる。
オーラというのだろうかつくりだすふんいきで、ふるまいで、起こってくるもので、
これはただものではないと思えてくる。
とくべつなことではなくて、むしろ、とてもふつうのくらしに根をはっていることで。
 
傷口をはがすように、かわきかけた傷口からまた血を出すようなふうに観るのではなく、
じぶんを鞭打つように観るのではなく、
傷口がある、そこにふうと息をふきかけ、あら、ふうん、と観る。
 

筋肉疲労

咳き込む日々が始まった。
このところ毎年。
クスリで手が震えていたのは2004年だったから、4周年か。
また長丁場かな。咳するのにけっこう筋肉を使うようで、だんだんと疲れて痩せてくるのだった。
 
とまあ備えあれば、それなりにこんなカラダとつきあえる。かもしれない。

respect, decency, pausing

で、またやってきたテーマはこんなこと。
こんどはもっと意味をもつ。
せっかく年をとってきたのだから急がずにかかえていよう。
安楽椅子の思索家になんかなるのではなく、いつも現実に動くなかで。

じぶんを更新する日記

昨日引いた2001年のウェブ日記をじぶんで読み直してみると、レヴィナスさんの話にもひっかかっているし、保坂和志の小説にもひっかかっている。今ごろになって他のつながりであらためて気になっているのだけれど、呆れるとともに、そういうものだな、とも納得したりする。
 
そういうものだな、というのは、ひとつは、繰り返し登場する、そして更新されてゆく、そういうキー・テーマというものがあるんだな、ということ。
それから、私にはじぶんひとりでは何かを発展させたり掘り下げたりする力は充分にはないこと。けれども、ある地点を嗅ぎわけ辿りつくことはできて、そこから先にゆくための重要でかつ有能な外の力をかりることはできるようだ、ということ。
と、ここでは書いておこう。
 
これまでに4箇所サイトは変えたが、1998年から断続的にだけれどウェブ日記を続けている。
何年か前に見直して、公開が憚られるものは消去した。のこりがウェブ上の某所に今もある。
それでも、旧いじぶんは、今他の人に読まれるとはずかしいような内容もある。
ローカルにバックアップを取って古いものは消してしまうのもいいな。
 

泣かないでください、というのに

iPodに入れた「千の風になって」を聴いてぐちょぐちょに泣いてしまう。
バスに乗っているのに。ダメダメ。
はずかしいので風邪ひいてぐずぐずのふりをする。
あるいは、泣きそうなのを必死にこらえて、怒っていると誤解されたりもする。