丘から見下ろす

「おとなの小論文教室」のバックナンバーを読んでいた。
witnessに逃げる、そして、アサーティブな批判、に関連して
批判のサイズ:
 

「丘から見下ろすな、
 まともに相手の言っている内容にはまって、もがけ」
 
丘から見下ろす人は、その内容に正面から入って、
うんぬんする、ということはない。
「そもそも、最近のあなたのスタンスが……」
というように、
視野の大きいところから、引いた目で批評し、
こうしなさいと、つまり、私に「変われ」と要求する。

witnessに逃げる

瞑想リトリート。
休憩時間の雑談のなかで、ある人が、ある別の人について「witnessに逃げるし〜」と言った。
そうそう、とそのときの文脈ではとても腑に落ちた。
目撃者の位置に居て、現場に居ない人。−−雑に言うとそんなふうに腑に落ちた。
 
ところでそう言った人自身はどういう意味でそう言ったのだったろう。
彼女にとっての"witness"の意味、"逃げる"の意味。もうすこし聴きたかった。
 
 *
 
ところで、ちょっとのことでまた迷っていたけれど、やらぬ後悔よりやってみる後悔を選ぶことにした。
それにしてもお財布のすっからかんさよ。

じぶんのために分かち合う

瞑想グループの感想を書く。
主催者の呼びかけにレスポンスして、それぞれの参加者が書いて、分かち合う。
これまで、その場で口頭でシェアすることはあったけれど、
いつもはこのような体験は、あとから文にして表現するようなことはしないできた。
 
書いてみると、その過程で、書けるほど腑に落ちている(ハラにつながっている)こととアタマでこねくりまわしていることとにも気がつく。思いつくままに書き連ねるのではなくて、パラグラフを考えたりして何かを主張したがっているのにも気がつく。そして書き送る先の人との関係のなかで、じぶんがしていることにも。
 
ことばにならないところはあるのだけれど、それはそれとして、どこがどのようにことばにできるか努めてみる。今の瞬間のじぶんのことばに向き合う。他の人のことばに耳を傾ける。
 
   *
  
捨てる生活プロジェクトは1日1歩。
4月からはあたらしく。すっかりあたらしくはならないけれど、じぶんの立ち位置はじぶんでその瞬間にあたらしくできる、はず。

「正しい意見」

子どもは判ってくれない (文春文庫)』から

(略)包括的に「正しいこと」を言う人は必ずしも個別的・具体的な局面において「適切な判断」を下す人ではないことを私たちはみんな知っているからだ。
 そういう局面で「適切な判断」を下す可能性が高いのは、(略)包括的命題を語っておしまい、という人間ではなく、(略)個別的な問いに議論の水準を移すことのできる人間である。
 しかし、「正しいこと」に固執する人は、これを嫌う。というのは、そうなるといずれ具体的な提言をしなければならなくなるし、具体的な提言をすれば、必ず誰かから異論対案が出るからだ。
 
 (略)だから、正しいことだけを言いたがる人は、必然的に「具体的なこと」を言わないようになる。そして、いったい誰が、どういう資格で、誰に向かって言っているのかも不分明になる。
 今、私たちの社会はそのような、「具体性を欠き、誰に向かって言っているのかよく分からない」けれど、文句のつけようのないほど「正しい意見」に充満している。

一見、誰かにことばを届かせ何かが始まることをめざしているようでいて、
そのじつ優先されているのは、正論を述べることや、
じぶんの正義にこだわることだったりする場合(人)は、思い当たるなあ。
じゃあ、この現場でどう動くの?となったときには、安楽椅子の評論家でしかない
人間もあるなあ。と、しみじみと思われる。
そんな者はほうっておいて、もうできるだけエネルギーも割かない。
じぶんが成長すること。

呪いのコミュニケーション

子どもは判ってくれない (文春文庫)』より

 いかなる答えを以てしても、問いかけを鎮めることができないことが予測できるとき、人間は絶句する。それは単純な沈黙とは違って、重苦しく、私たちの生気を蝕む種類の沈黙である。
 しかし、このような「絶句」状況に他人を追いつめることを(それと知らずに)好む人がいる。(略)
 むろん、本人はそんな「邪悪」な欲望が自分を駆動していることを知らない。しばしば、「呪い」をかけている人間自身は、自分の行動を動機づけているのは教化的な善意だと信じている(場合によっては「愛情」だとさえ)。
 
 どこかで他者とのコミュニケーションの欲望には「節度」を設けるべきなのだ。
 「呪いとしてのハラスメント」を、日常的にそれと知らずに行っている人間たちに共通するのは、この「コミュニケーションの欲望への節度のなさ」ではないかと私には思える。
 
 (略)彼の言動そのもののうちには私を直接傷つける要素は何も含まれていない。ただ、彼のある種の「節度のなさ」が、私を疲れさせていたのである。
 
 もし「深い疲労感」を与える人間がいたら、その人は「呪い」をかけているのだと知ること、そして、できうるかぎりすみやかにその関係から離脱すること、これに尽きると思う。

この疲労感はもう5年越しだ。
いまの課題は、もはや仕事の責務を果たすというよりも、すみやかに呪いから離脱することかもしれない。
仕事として、落ち着いて、用件を伝達する。
しかしもう、話し合えるかもしれないなどという幻想は持たないことなのだろう。
 
ある種の局面で、憂いある眼差しをして、口をつぐんでいらした先輩のことを思い出す。
話にならないときには、そうやって黙ることが、できることのうちのいちばんのことなのかもしれない。
 
子どもは判ってくれない (文春文庫)

ぽっかりと家に居る休日

今月、いちにちじゅう家に居る日は今日だけだ。
 
じつはプチ旅の予定があったのだが、ヤボ用の予定がはいりそうになり、
私用の旅をキャンセルしたら、こんどはヤボ用のほうがキャンセルになってしまった。
なんだかなあ。
 
ともあれ、少しだけ片づけものができた。知人が訪ねてきてくれていっしょに桜をながめた。
ひとつ掃除ができ、ひとつ好きな曲が聴けて、一杯好きなお茶を飲めて。
感謝する一瞬一瞬。
 
このところ、アタマ(mind)はちょっとお休みで、ムネ(heart)やハラ(center)とつきあう日々だった。
 
そうしたところに、よくわからない電話がかかって、マインドがざわついたのがわかった。
そう、OK。疲れる。哀しい。ふうん、OK。言葉が通じていないことの繰り返し。OK。
 

自分をちょっと力づけてくれるような「しかけ」は、もっていていい

同じ号からメモ

困ったな、どうしたものかしらと私はビジネスホテルの真っ白い天井を見上げては考えた。(『デッドエンドの思い出』よしもとばなな
 
歩いていると、ついてくるものがあった。
 
からっぽになっちゃった。
つぶやく。
けれど、からっぽのところに、すでにもう何かが満たされつつある。(『真鶴』川上弘美

 
田辺聖子の短編小説を漫画化したという『金魚のうろこ』鴨居まさね も読んでみたい。
 
雨が降って気圧が低い。
こんな日だからか、こんな文言に目がとまったり。
さあ、捨てる生活プロジェクトへ。